学生だった頃、書店へ行って購読する本を選ぶ時間が好きでした。
自宅から一番近かった書店は街の小さな小さな本屋さんだったので、文庫本コーナーの端から端まで
ずらりと並ぶ本のタイトルを目で追っていっても、それほど時間はかからなかったです。
中高生の頃は日本の小説も海外の小説も読んでいましたが、いつの頃からか翻訳ものは読まなくなりました。
独特な形容のしかた、表現のしかた、書き回し方が私には合わなくて
読んでいてもすっと入ってこないような気がしたのです。
話は戻りますが、海外小説も読んでいたころ、今のようにネットサイトで本のあらすじを読むこともなかったし
口コミや感想を目にすることもない時代。
どうやって読む本を選んでいたかというと、ずらりと並ぶタイトルの中から惹かれる本を手に取り
裏表紙のあらすじを読んで面白そうだと思った本を買って読む…という感じでした。
そう考えると本のタイトルは重要なのだと思いますね。
高校生の頃だったでしょうか、書店で手にした一冊の本は
フランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』。
悲しみをそっと受け入れる感じが、なんて悲しくて切なくて美しいタイトルだろうと思いました。
感動したはずの小説の内容をほとんど覚えていない自分が、いま本当に悲しいです( ノД`)シクシク…
こんな悲しみとはしょっちゅうお会いしていますが、便利な時代に便乗して、さきほど本のあらすじを読んできました。
読んでいる内に思い出した部分もあります。
で、強烈に思い出したのは、下りの一節の文章に感動したこと。
歌、音楽、映画、絵画、etc.で感動するように、たった一節、たった一行の文章で人は感動することができる
あるいは感動させることができるんだということを知ったのは、そのときが最初でした。
私がまだ感受性が豊かだった思春期のころのことなので、以下、優しい気持ちでお読み流しください。
闇のなかで、わたしは彼女の名前を、
低い声で、長いあいだくり返す。
するとなにかが胸にこみあげてきて、
わたしはそれをその名のままに、
目を閉じて、迎えいれる。
悲しみよ、こんにちは。
by フランソワーズ・サガン